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東京地方裁判所 平成5年(ワ)2025号 判決

主文

一  被告は、原告に対し、金一七九万八八〇〇円及びこれに対する平成五年二月二四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを五分し、その二を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、原告勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

理由

第一  請求

被告は、原告に対し、金四九九万六三五〇円及びこれに対する平成五年二月二四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  請求の原因

1  原告は、平成四年七月当時、大学病院に勤務する医師であり、開業を予定していた。被告は、別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)を所有し、当時、鎌田哲郎医師(以下「鎌田医師」という。)を院長として雇用して、本件建物において、「やはたクリニック」の名称で診療所を経営していた。(争いがない)

2  原告は、平成四年六月ころ、株式会社メドックス・コンサルティング(以下「メドックス」という。)を通じて、被告から、本件建物についての賃貸借契約の申込を受け、同年七月三一日、被告との間で、本件建物につき次の約定で賃貸借契約を締結し(以下「本件賃貸借契約」という。)、その際、被告に対し、保証金の一割にあたる三五〇万円を手付金として支払つた。(三五〇万円支払につき争いがない)

賃借期間 平成四年九月末日から

賃料 一二三万六〇〇〇円

共益費 一〇万三〇〇〇円

保証金 三五〇〇万円 償却率年三パーセント

礼金 一二三万六〇〇〇円

3  原告は、本件建物において平成四年九月末から医院開業を予定したため、同年七月三一日には勤務していた大学病院を退職し、勤務医として紹介を受けた他の病院(江戸川区内の松江病院)への就職も断念した。原告は、その後、医院開業計画の作成及び本件建物で原告が表示として使用する予定のロゴマークの作成を第三者に委託した。原告は、同年八月四日、被告との間で、本件賃貸借契約における保証金を三〇〇〇万円に変更する一方、その償却率を五パーセントに増額する旨の合意をし、また、同年八月下旬、被告の指示どおり、被告に対し礼金一二三万六〇〇〇円を支払つた。その間、原告は、被告側との間で、本件賃貸借契約の契約書の調印につき協議した結果、同年八月一五日に調印日が定められたが被告が一方的にこれを延期したため、さらに同月三一日、ついで同年九月一〇日と調印日を予定したが、被告が一方的にこれを延期したため、調印には至らなかつた。

4  被告は、原告に対して本件建物を引き渡さず、前記のとおり、本件賃貸借契約の契約書調印の日を一方的に延期し、ついには、平成四年九月一九日、本件賃貸借契約を白紙撤回した。

5  仮に原告・被告間に賃貸借契約が成立していなかつたとしても、被告は、原告に対し、契約締結上の過失の法理により、原告の被つた後記7の損害を賠償する義務がある。すなわち、平成四年七月三一日には、原告は、被告との間で、契約条件についての合意をするとともに、同日、被告に対して手付金を支払い、従前の勤務先も退職して、本件建物において医院を開業するために必要な準備に入つているから、たとえ原告・被告間で未だ契約が成立していなかつたとしても、少なくとも契約締結上の準備段階にあつたことは明らかである。被告側は、同年八月末ころまで、原告に対して、本件建物の賃貸に関して鎌田医師との間に合意が成立しておらず、本件建物を原告に引き渡せない可能性がある旨を告知することなく、前記3のとおり再三契約書調印を一方的に延期し、九月一九日に至るまで本件建物の賃貸借契約について曖昧な態度を取り続けた。従つて、被告には、原告が、契約締結に至ると信じた結果被つた後記7の損害を賠償する義務がある。

6  仮に以上の主張がいずれも理由がないとしても、被告側は、原告がすべに開業準備行為に着手していたことを知つていたものであり、そのような場合、信義則上開業準備行為を中止させる義務があるのにあえてこれをしなかつたものであるから、原告に対する不法行為を構成する。被告の不法行為により、原告は後記7の損害を蒙つた。

7  原告の蒙つた損害は次のとおりである。

(一) 逸失利益 二三四万六三五〇円

原告は、平成四年八月、九月は被告側の経営している診療所に勤めながら開業準備行為を進め、同年九月末から開業することを予定して、同年七月三一日には勤務していた大学病院を退職し、開業するまでの間勤務する予定であつた他の病院への就職の紹介も断つた。そのため、原告は、二か月分の収入を得る機会を喪失した。

(二) 開設計画作成費用 五〇万円

原告は、医院開業計画の作成を第三者に委託した。

(三) ロゴマーク作成費用 一五万円

原告は、本件建物で原告が表示として使用する予定のロゴマークの作成を第三者に委託した。

(四) 慰謝料 二〇〇万円

原告の精神的損害に対する慰謝料は二〇〇万円が相当である。

8  よつて、原告は、被告に対し、第一次的に債務不履行による損害賠償請求権に基づき、第二次的に契約締結上の過失の法理による損害賠償請求権に基づき、第三次的に不法行為による損害賠償請求に基づき、四九九万六三五〇円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成五年二月二四日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  被告の主張

1  原告と被告とは、賃貸借契約の条件やその締結時期について交渉中であつたにすぎず、本件賃貸借契約は成立していない。平成四年七月三一日には、原告は、被告口座に三五〇万円を振り込んでいるが、これは、契約手付金ではなく、単なる証拠金であり、被告は、将来原告・被告間で賃貸借契約を締結する時には、同金額を契約の手付金に当てる趣旨で受領したにすぎない。

2  被告は、原告との間における本件建物の賃貸借の折衝に際し、鎌田医師を診療所の院長として雇用しており、鎌田医師との話合いがつくまでは、原告との間で賃貸借契約を締結できない旨を申し入れていた。原告と被告は、平成四年九月一九日、本件建物の賃貸借契約を締結しないことを合意した。したがつて、被告は、契約締結上の過失又は不法行為に基づく損害賠償責任を負うものではない。

3  被告は、平成四年一〇月六日、原告から受領した証拠金三五〇万円及び礼金一二三万六〇〇〇円を返還した。(右金員の返還は争いがない)

4  過失相殺

被告は、仲介者であるメドックスが原告を紹介した直後に、鎌田医師との間の問題があり、これが解決するまで契約を締結できない旨を原告に対して告げていたのであるから、原告が、大学病院を退職後に他の病院に勤務することなく、その期間の収入を得られなかつたとしても、その損害は自ら招いたというに等しく、鎌田医師との間の問題があることを知つた後に開設計画作成及びロゴマークの作成を発注しているのであるから、原告としては、鎌田医師との間の問題の帰趨を見て発注すべきであり、この点で原告には重大な過失があるというべきである。

第三  認定事実及び判断

一  請求の原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  同2(賃貸借契約締結の事実の有無)について判断する。

1  《証拠略》中には、平成四年七月三一日に本件賃貸借契約が締結された旨の供述部分等がある。そして、右同日、原告から被告に対し、三五〇万円が支払われた事実は争いがない。

2  しかし、《証拠略》によれば、三五〇万円の支払は本件建物の賃貸借契約締結時の手付金として受領した旨の記載があるにとどまり、《証拠略》によれば、本件建物の賃貸につき、かつて賃借を希望した医師の資金不足のために契約締結に至らなかつた事例があつたこと、その後、原告からの賃借希望の申入れがあつたため、被告としては、以前のような事態にならないように、いわば申込証拠金として、予定されていた保証金の一割を納入してもらい、将来、賃貸借契約が締結された時点において、右申込証拠金を手付金に充当する趣旨で原告から支払を受けたものであること、さらに、原告・被告間では、平成四年八月四日、保証金を減額するとともに、償却率をアップさせる旨の折衝が行われたことが認められ、さらに、その後に、賃貸借契約の調印日が定められたことからすると、平成四年七月三一日段階では、未だ、賃貸借契約が締結されたものということはできない。前記1掲記の証拠は、右認定事実に照らし採用することはできない。そうすると、本件賃貸借契約が成立したことを前提とする原告の主張は理由がない。

三  請求の原因5(契約締結上の過失の有無)について判断する。

前記争いのない事実及び《証拠略》により認められる事実は、次のとおりである。

1  被告側は、平成元年五月から、鎌田医師を院長として雇用して「やはたクリニック」を経営していたが、鎌田医師に対して一か月一〇〇万円の給料の支払を要したため、平成二年ころから経営不振となつていた。そして、平成四年一、二月頃には、鎌田医師が、健康上の理由から退職することを申し出たため、被告側は、本件建物を医師に賃貸して賃料収入を得ようと考え、同年一月ころから、メドックスを介して、医師との間で本件建物の賃貸借契約の交渉を始めた。そして、森愛樹医師との間で契約交渉が煮詰まつたが、森医師が資金調達に困難を来したため、結局、同医師との間での賃貸借契約締結に至らなかつた。その後、メドックスは、生協関係の賃借希望を被告に紹介したが、その帰趨が判明しない段階で、さらに、原告の賃借希望を被告に紹介した。

2  原告は、平成四年六月当時、大学病院に勤務する医師であつたが、開業を予定していたため、メドックスを介して、被告側との間で、本件建物についての賃貸借契約の交渉を開始した。この交渉の過程で、被告側は、現在鎌田医師を院長として雇用しているが、鎌田医師の退職については格別の障害はないこと、ただ、他の希望者との間で賃貸借契約の交渉が先行しているため、右の折衝を優先せざるを得ないので、原告との間での交渉は同年七月二〇日ころまで待つてほしい旨、原告に伝えた。なお、被告側としても、原告が当時勤務医であつたことは承知していた。同年六月下旬の段階で、被告側から、原告に対し、賃料一二三万六〇〇〇円、共益費一〇万三〇〇〇円、保証金三五〇〇万円で償却率年三パーセントとの条件が提示されていた。

3  メドックスは、原告に対し、平成四年七月三一日に本件建物に関する賃貸借契約を締結する運びとなつた旨の連絡を行つた。そして、メドックスは、原告に対し、保証金の一割に相当する三五〇万円を被告に支払うよう指示したことから、原告は、同年七月三一日、被告に対し、前示のとおり三五〇万円を支払つた。なお、原告は、大学病院への勤務を続けていたので、開業準備に支障があると判断し、同月の初旬ころから、勤務していた大学病院に対し退職の申出を行い、同年同月三一日に正式に退職した。

4  被告側は税理士の指導に従い、平成四年八月四日、原告に対し、本件賃貸借契約における保証金の償却率を年五パーセントとしたい旨の提案を行つたため、原告は、これを受け入れる代わりに保証金を三五〇〇万円から三〇〇〇万円に引き下げることを提案し、両者で右の条件につき合意を見た。そして、メドックスは、原告・被告間の賃貸借契約の調印日を同年八月一五日と定めたため、原告は、同月四日、開業するまでの間勤務する予定であつた松江病院への就職の紹介も断つた。また、原告は、同日ころ、融資先に提出するための医院開業計画の作成及び本件建物で原告が使用する予定のロゴマークの作成を第三者に委託するなどした。

5  ところが、被告は、鎌田医師の雇用関係の終了が難航したことから本件建物の賃貸に支障が生じたため、予定された平成四年八月一五日の調印日の契約締結に応じなかつた。そして、賃貸借契約の締結予定日として、同月三一日、同年九月一〇日と設定されたが、やはり契約締結を行わなかつた。この間、同年八月二一日には、被告側は、原告に対して初めて、被告側と鎌田医師との間で雇用終了の合意が成立していない旨を明らかにするとともに、原告に対して賃貸する意向であるからいま暫く時間的猶予を望んだ。他方、原告は、融資の話も進み、融資先に提出する事業計画書も作成した後であつたため、確実に賃貸借契約が締結されるものと信じ、被告からの対応を待つた。原告は、予定された同年八月三一日の調印日には、メドックスの指示により、被告に対し礼金予定金額の一二三万六〇〇〇円を支払つた。

6  ところが、被告側は、鎌田医師との間の調整に難航したため、同年九月一九日、原告に対し、一二月頃まで契約締結を待つてほしい旨の申入れを行つた。これに対し、原告が、早期契約締結を主張したことから、被告側は賃貸借契約交渉の打ち切りを主張し、結局、本件賃貸借契約書の調印には至らなかつた。

7  そのため、原告は、平成四年一〇月から松江病院に勤務し、平成五年二月からは、他で開業医を始めている。なお、原告は、右松江病院では平成四年一〇月当時、月額一一七万四〇〇〇円の月収を得ていた。

右認定事実によれば、原告は、従前の大学病院の勤務先を退職したうえ、将来賃貸借契約が締結された場合には手付金にあてる趣旨で三五〇万円を被告に対して交付し、被告側との間で契約条件を交渉するなど本件建物において医院を開業するために必要な準備に入つていたものであるから、原告・被告間は契約締結上の準備段階にあつたことは明らかであり、原告において将来賃貸借契約が締結されるものと信じて行動をすることはたやすく予想されるところである。ところが、被告は、本件建物の賃貸の前提である鎌田医師の退去につき合意が成立しておらず本件建物を原告に引き渡せない可能性があるにもかかわらず、これを平成四年八月二一日まで原告に明らかにせず、再三、賃貸借契約の締結を一方的に延期し、九月一九日に至るまで本件建物の賃貸借契約について曖昧な態度を取り続けたものであるから、被告には、いわゆる契約締結上の過失があり、原告が将来賃貸借契約が締結されるものと信じて行動をしたことによつて蒙つた損害を賠償すべき義務があるというべきである。

四  そこで請求の原因7(原告の損害)について判断する。

1  前示のとおり、原告は、被告との賃貸借契約が成立し平成四年九月末からの開業を予定していたため、同年八月及び九月に予定されていた松江病院への勤務を断念したこと、原告は、右病院において月額一一七万四〇〇〇円の収入を取得し得たことからすれば、二三四万八〇〇〇円の損害を蒙つたということができる。

2  《証拠略》によれば、原告は、医院開業計画の作成を五〇万円で第三者に委託し、右につき五〇万円を支払つたこと、さらに、本件建物で使用する予定のロゴマークの作成を一五万円で第三者に委託したことが認められ、右の費用も原告の蒙つた損害ということができる。

3  なお、原告は、慰謝料を請求するが、右の損害が填補されることにより、原告の損害は回復されるものであるから、さらに慰謝料請求を求めることはできないというべきである。

五  そこで、過失相殺について判断する。

原告が、将来賃貸借契約が締結されるものと信じたことについては、前記三に認定した事情のとおりであるが、右の事情のもとで、原告が勤務先を退職し、松江病院への勤務も断つたこと、医院開業計画書及びロゴマークの注文については、原告に軽率な点も否定できず、被告の負担すべき損害賠償額を算定するにあたつては、これを斟酌すべきであり、その過失相殺は被告六対原告四とみるのが相当である。そうすると、右賠償額は一七九万八八〇〇円となる。

六  なお、原告は、被告の前記行為をとらえて、不法行為に基づく損害賠償を請求する(請求の原因6)が、仮に被告の行為が不法行為にあたるとしても、それに基づく損害賠償請求が前記六に認定した額をこえるものとは認められないから、原告の右主張を重ねて認容すべき余地はない。

七  以上の次第で、原告の本訴請求は、一七九万八八〇〇円及びこれに対する訴状送達日の翌日である平成五年二月二四日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余は失当であるから棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条第一項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 吉田健司)

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